いのちについて
―自然と人間
世紀前三世紀頃,釈迦や孔子やソクラテス三人の賢者によって,「いのち」の問題は解決されたといわれているのだそうである。
「いのち」には二つの意味がある。一つには類としての連続性をもたらす,源としての「いのち」。もう一つには不連続な「個体の生存期間」としての「いのち」である。かつては「いのち」といえばこうした総合的な意味合いからとらえられ,三人の賢者の時代に広くまた深く問われたものであろう。
その後,人間は暮らしやすく生きやすい環境を築き上げようと努力し,歴史を刻んできた。その結果文明が発達し,現代の豊かさに辿り着いた。豊かさとともに,「個体の生存期間」の延長が主題になってきた。個の命の連続は,あまり省みられなくなってしまった。
特に昨今は「いのち」といえば後者の意味合いで使うことが多く,また,個体の生存期間を少しでも延ばしたいという思いが強烈になってきている。これは人間の「いのち」が自然から浮いてしまう結果を導いた。
その典型は,三木が例としてあげた心臓移植に見られる。心臓と血管は縫い合わせても,数多い神経はほったらかしにしておく手術だ。好きな相手に出会っても決してどきどきすることのない心臓。これは栽培植物,飼育動物のように本来の生のリズム,自然のリズムからはおよそ遠い姿で,不自然なものだ。三木はこれを本来の姿に恐ろしい歪曲を加えたものと見る。
自然のリズム,本来の生のリズムとはなにか。三木はこれを植物,動物の生命の営み
から言及してみせる。
植物の場合,春から夏にかけて成長が行われるが,三木はこれを「食の相」と呼ぶ。
また,秋には開花結実が行われ,これを「性の相」と呼んでいる。このように植物には春夏秋冬という自然の流れをそのまま受け取る細胞の特性がそなわっていると三木は言う。
一方,動物は自分で光合成ができないので,植物から栄養を横取りすることになる。つまり植物が実を結ぶ秋の季節に動物はそれを食べて成長する。そして植物が芽を出す春の季節に,逆に動物の生殖は行われる。こうして植物と動物の間では食と性の位相に半年のずれが起こるが,植物が受け取った自然の天体のリズムを,動物もまたみずからの肉体の細胞で受け取ることになる。
ところで,春夏秋冬という自然のこころに従って成長と生殖をいとなむという本来の生のリズムは,人間の栽培と飼育における技術の向上に伴ってこわれて,非常に乱れてきたと三木は考える。植物の改造と動物の改造,それだけではない。その過程で人間のからだもつくり変えられてきたのだというのだ。歯槽膿漏,虫歯等々。
不自然な食生活。すなわち家畜にえさを与えるのと同じ発想の下に,人間はおのれ自身を養ってきた。人間の家畜化。種々の不治の病は,その積み重ねの生んだ当然の報いではないかという。
さて,三木は,一番深刻なのは人間の性の問題であるという。自然における植物や動物の世界において,性の流れはきわめて完結的である。それに比べ人間の性は,月経現象や乳腺に見られるように,人為的に欺かれることが多く,これだけでも人類はいったいこれから先どういうことになるのか,想像もつかない。お先真っ暗です,とまで言っている。
同じ自然界,あるいはそこに生を営んだ共通の祖先から出発しながら,「個人の生存期間」の延長を願い,自然の組み替えにまで手を伸ばした人類が,自然のリズムから突出し,かけ離れていくことに三木成夫は不満と不安を抱いている。
三木は,人間がこの離れた自然の大地にふたたびしっかりと足をおろすことが出来るのかと問い,類としての命の連続に思いを馳せ,そこから個としての「いのち」を体得する必要性を説き,祖先崇拝の言葉を持ちだしてくる。また,「個人の生存期間」の延長は頭で考える世界であり,もう一方をこころで感ずる世界であるといい,「あたま」の独走によって自然のリズム,生の本来のリズムが失われたことを思えば,いまこそ「あたま」が「こころ」の声に耳を傾けることが差し迫って必要なのではないかと結論づけている。
あまりに単純化してしまうかもしれないが,三木成夫はここで,人間は「自然」から遠く離れすぎたのでいろいろな諸問題を抱え,四苦八苦しているのだから,もう一度自然から学び直し軌道修正すべきだと言っているように感じる。
ある意味で,ぼくはここでの三木の言説から,たくさんのことを教わり,また考えるべき要素を提供されたと感じている。だがしかし,どこかなじめぬところが残る。
自然から離れようとする脳の働きはやむことはないのではないか?かえって自然からどんどん離れることを人間の脳の本分だとして,それを前提として,逆に徹底的にそこを追求していくところに活路を見いだした方が現実的ではないのか?
つまり,三木とは逆の発想に,気持ちが惹かれる。もちろん,「こころ」の声に耳を傾けることに違和を感じるものではない。「あたま」には「あたま」なりの,つまりそれ自体の課題,未開拓の領野がありそうな気がして仕方ないのだ。
だいぶ前からぼくは,人間の概念が変わるんだ,と考えてきた。これまでの概念でとらえられていた人間というものがそれではとらえきれないものとなっていくこと,人間の概念から人間がはみ出していくこと,これはもう必然ではないかと思ってきた。よい,悪いの問題ではなく,必然的にそうなっていくと感じてきた。また,そこにしか未来は展望できず,それを見通して現在を思考すべきではないかと考えてきた。
三木成夫の言葉は現在を読み解くには,多くの材料を提供してくれているし,ぼくはその思索の深さ,認識の的確さを尊敬してやまない。しかし,その先について,ぼくの感性は三木と決別する。ぼくにはかすかな振動に反応してふるえる感覚の細い針があり,何をおいてもぼくにはもうそれを信じるしか,ないのだ。
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